ルイ・アレクサンドル・ベルティエ

(Louis Alexandre Berthier:1753〜1815)



右の画像は長谷川哲也『獅子の時代』(少年画報社・ヤングキングアワーズ)より

【私にとって最も貴重な人材の一人】
1796年から1814年までナポレオンの傍にあって参謀長を務めたベルティエは、ナポレオンにはなくてはならぬ存在でした。実戦の指揮官としてめだった活躍をしたわけではないので、ネイやミュラに比べると知名度も低く、一般的な評価もそれほど高くはないようですが、ベルティエがいなければ、ナポレオンの軍事的成功はあり得なかったとも言われています。ナポレオンは「余が鷲にしてやったガチョウの子」と言って、ベルティエの実績と貢献度をおとしめていたふしもあるのですが、その一方では「ベルティエはあらゆる命令書を手がけ、さまざまな詳細事項をまんべんなく処理した。仕事ぶりは迅速かつ正確であり、見事だった……私にとって、最も貴重な人材の一人であり、誰も彼の代わりとなることはできなかった(ラス・カーズの回想録より)」とも述べています。ベルティエの仕事は単なる「事務屋」ではなかったというのが事実のようです。ベルティエの伝記はそれほど多くはないのですが、以下ではチャンドラー編の「Napoleon's Marshals」の記載をもとに、副官らの回想録などをとりまぜながらベルティエの人物像を簡単に紹介しておきます。

【専門教育を受ける】
ルイ・アレクサンドル・ベルティエは、大陸軍の元帥の中では、ダヴーやマルモンと並んでもっとも専門的な教育を受けた一人です。ベルティエの父親は工兵部隊(地理測量専門)の中佐を務めており、ベルティエも13歳で工兵部隊に入隊しました。1770年には中尉、77年には大尉となります(ただしずっと工兵隊に所属していたわけではなく、歩兵部隊や竜騎兵部隊での勤務を歴任しています)。やがてロシャンボーの下でアメリカに渡りますが、実戦をほとんど経験しないまま、1783年にはフランスに帰国しました。

【参謀将校として】
フランス帰国後はプロシア軍への視察団に加わり、晩年のフリードリヒ大王とも面会しました。ベルティエはプロシア軍の整然とした組織に感動したようです。「プロシア軍の見事な行進はどれほど賞賛しても足りないほどだ。これは1分間76歩の歩調を保っているからだ」。また、老齢の大王が若者のように軽騎兵の先頭を馬で駆けてくる様子を賞賛しているそうです。

1789年の革命勃発後も比較的平穏に過ごすことができたのですが、ヴェルサイユの国民衛兵隊に所属していた時に国王の叔母の国外逃亡を援けた形となったため、反革命を疑われて92年の9月には停職処分になります。93年の6月にはビロン将軍の参謀長就任の要請を受けるのですが、翌7月にはパリに戻り、そのまま失業状態にありました。

1795年に共和国軍が再編されると、ベルティエの真価を認めていたカルノーによってアルプス・イタリア方面軍の参謀長に任命されます。ベルティエはここで同軍の司令官を引き継いだボナパルト将軍と出会うことになりました。これ以後、ベルティエはナポレオンの参謀長としてフランス軍の軍事行動に大きく貢献することになります。

ベルティエには参謀長としてのイメージが強いのですが、ボナパルト将軍はロディの戦い(1796年)の後で、「ベルティエの才覚、行動力、勇気、性格、そのすべてが彼をひきたてている」、「この日(ロディの戦い)、勇敢なるベルティエは、砲兵、騎兵、擲弾兵だった」として、ベルティエを激賞しました。ロディ橋の戦いでは、ボナパルト将軍自身が軍旗を掲げて橋を突破したと書かれている史料も多いのですが、この話には異動が多く、実際に軍旗を持っていたのはベルティエだったという説もあります。(詳しくはR/D氏のこちらのページへ)。

参謀将校としてのベルティエの能力は、万人が認めるところだったようです。1793年に刑死したキュスティーヌ将軍は次のように述べたそうです。「私はベルティエを誰よりもよく知っている。彼をアメリカに連れていったのはこの私だからだ。地域の偵察にかけては、ベルティエほどに熟練した男はいない。ベルティエの観察眼は正確この上なく、詳細なことがらも見逃さない。ベルティエに代わる人物はいるかもしれないが、現在までのところ、私には思いつかない」。

いささか「仕事中毒」気味であったベルティエには、指の爪を噛む癖があったそうです。また、「いつもポケットに手を入れていた」、「鼻に指を突っ込んでいた」という記録も残っています。爪を噛む癖のせいで、指先には血がにじんでいたという話も伝わっています。

フランスで出版された
「元帥辞典」より
ベルティエの愛人
ヴィスコンティ夫人
 
【気配りのできる人物―副官による回想】
ベルティエの人物像は、参謀将校や副官らが残した回想録に散見されます。以下は「回想録」を残したLejeuneによる描写です。「ベルティエの経歴は、われらが皇帝を取り巻くどのような将校よりも輝かしいものだ。だが、彼には気取ったところが少しもなく、簡素で慎ましい自然な振る舞いを身につけていた。部下の自尊心を傷つけるようなことは絶対に口にせず、その反対に全力を傾けて彼らの地位を確かなものにしようとした…(中略)…。私は彼が地球の全域でフランスに仕えることができて幸せだと言うのを聞いたことがある。初陣となったアメリカ独立戦争ではロシャンボーやラファイエットと親交を結び、彼らのもとで戦った。彼によると、今までに授与された勲章の中で最も誇りに思っているのは、鷲の形をしたシンシナティ勲章だそうだ」

「1795年(原文のまま)から1814年までの間、ワグラム公爵(ベルティエ)ほど献身的に皇帝に仕えた人物はいなかった。彼と共に過ごした期間中には、毎日、新たな献身の証拠を目をすることになった。彼にとってはこれが宗教だった。ベルティエには利己的なところが微塵もなく、皇帝に対しては愛情と絶対的な服従を捧げており、その忍耐心と諦観は感動的ですらあった。 身長は人並みだったが強健な体つきをしており、髪の毛は多くて縮れていた。 戦争と同じく狩猟にも熱心で、ベルティエの長所を知り抜いていた皇帝は彼を狩猟長官に任命した。ベルティエのもとで12年間を過ごすことができて、私は幸運だった」。(なお、後にLejeuneはモスクワからの帰路、ダヴーの参謀部への転出を命令されるのですが、彼はベルティエの元に留まりたいと強く希望します。この希望はいれられず、Lejeuneはダヴーのもとに赴くことになりました)。

スペインから戻ったLejeuneは、「ベルティエ元帥のもとで仕事を再開した。私の仕事は、ドイツに集結した各軍団の位置を地図上に記していくことだった」と続けています。これより先、Lejeuneは、参謀部での作業を以下のように描写しています。「(ベルティエ元帥の執務室で)、終日、地図上にピンを刺してドイツ全土に展開している全部隊、移動中の援軍の位置を示す作業を続けた。併せて、備品、飼料、軍靴などの倉庫、大砲や輜重の集結場所にもピンを刺し、確認できた敵軍の動きもピンで示した。各軍団を表す色違いのピンをドイツ、チロル、イタリアの地図に刺していくため、チェスボード上に並んだ駒のようだった」。

モスクワまでの往路で彼の副官を務めたFezensacは、次のようにベルティエを描写しています。「ベルティエ元帥は親切さとぶっきらぼうな所の入り混じった態度で、われわれ(副官ら)に対した。われわれを完全に無視することが多かったが、じゅうぶんな配慮を感じることもあった。元帥は全経歴を通じて、自分のもとで仕事をした者たちの昇進に気を配った。彼の宿舎は皇帝の次によい場所に設営されていたのだが、元帥は皇帝の傍にいたので、宿舎には副官たちが寝泊りすることになった。ベルティエ元帥はどのように忙しい時でも、決してわれわれの存在を忘れず、不足がないかを何度も訊ねてきた。戦争のさなかにあって、他人よりもよいものを食べ、よい場所にいられるというのは実にありがたいことだ。参謀部の雰囲気もよかった……(中略)……ベルティエ元帥は真夜中に呼び出されて、前日の作業をすべて変更するように命令されることも多く、しかもその報酬は叱責だけという有様だった。だが、彼(ベルティエ)の熱意は決して冷めず、肉体的な疲労も事務作業の疲れも、彼の頑健さを揺るがすことはなかった。ベルティエ元帥の忍耐力はすべてに勝っていたからだ」。この後、Fezensacはネイの第三軍団に配属され、歩兵連隊長としてモスクワからの撤退を経験することになります。撤退の様子を描いた彼の回想録はモスクワ遠征の古典的記録として有名になりました。

【射撃パーティーのエピソード】
当時は「射撃パーティー」が盛んに行われていました。ウサギなどの小動物を狩場に放ち、ピストルを撃ってしとめるというものだったようです。ある時、「射撃パーティー」の準備にあたっていたベルティエは、獲物にするウサギの数が足らなかったため、野生のウサギではなくて飼われていたウサギを集めました。ところが、飼われていたウサギは人から餌をもらっているため、少しも逃げようとしません。それどころか、馬車から降りてきたナポレオンのもとに餌をもとめて殺到したという話も伝わっています。

【マダム・ヴィスコンティとのロマンス】
ベルティエとイタリアの名流夫人であったマダム・ヴィスコンティとのロマンスはよく知られています。第一次イタリア遠征当時、四十歳を過ぎてまだ独身だったベルティエは、ボナパルト将軍の妹、エリザと結婚したいと思っていたのですが、エリザはすでにフェリックス・バッチオキに好意を持っていました。ナポレオンは、ベルティエを慰めるつもりだったかどうかはともかく、自分にしつこく迫っていたミラノ女性を彼に紹介します。この女性がマダム・ヴィスコンティでした。彼女の本名はジュゼッピナ・カルカロ。ジュゼッピナはジョバンニ・ソプランツィ伯爵の未亡人でしたが、フランチェスコ・ヴィスコンティと再婚していました。この当時、すでに熟女の年齢に達していましたが、学識もあり、官能的な魅力に富んだ女性だったそうです。

ベルティエはたちまち彼女の虜となり、生涯にわたってヴィスコンティ夫人を女神のごとくに崇拝したと言われています。ヴィスコンティ夫人の夫が、シザルピン(チザルピナ)共和国の外交官の職を得たのも、ベルティエの口利きによるものでした。ブーリエンヌの『回想録』によると、ベルティエはヴィスコンティ夫人の肖像画を飾った「祭壇」の前で何時間も過ごし、香を焚いて礼拝までしていたそうです。チェボーの証言によると、ベルティエはかなりきわどいラブレターをヴィスコンティ夫人に送っていたらしいのですが、運悪くイギリス軍の手に落ちたラブレターが複製されてベルティエが物笑いの種になったという話もあります。

ベルティエは一途にヴィスコンティ夫人につくしましたが、夫人の方は必ずしもベルティエを最優先の愛人と考えていたわけではなく、彼がエジプト遠征で不在のおりには、エミグレのアレクサンドル・ド・ラボルドと親密な関係にありました。

エジプトから戻ったベルティエは、公然と不倫愛を貫きましたが、ナポレオンはベルティエの行為は「愚考」であるとして、ジョゼフィーヌのとりなしにもかかわらず、ヴィスコンティ夫人がマルメゾンの内輪の集まりに顔を出すことを禁止しました(ロール・ダブランテス『回想録』)。

ナポレオンはベルティエが夫人に寄せる思いを熟知していましたが、政治的な理由でベルティエを別の女性(バイエルン王の姪)と結婚させました。ナポレオンからの結婚命令がおりたとき、マダム・ヴィスコンティは未亡人になったばかりでした。ベルティエはわが身の不運を嘆きながらも、ナポレオンの命令に従いました。正妻との間には1男2女が生まれて爵位を継ぎましたが(マダム・ヴィスコンティとの間には子どもは生まれませんでした)、最後の第4代ワグラム公爵は、第一次世界大戦で戦死しています。ベルティエは正妻と愛人の双方に気配りを欠かさず、最終的には双方を同居させることができました。もっとも、このころのヴィスコンティ夫人はすっかり肥満体になっており、少しでも細くみせようとしてぴったりとした下着をつけ、体中を紐で縛っていました。このためかどうかはわかりませんが、彼女は卒中の発作に見舞われ、左半身が麻痺してしまいます(チェボー『回想録』)。ベルティエは献身的に彼女の介護にあたり、1811年に書かれたマダム・ド・スーザ(有名な女流小説家)の手紙には、ベルティエの献身ぶりが述べられているそうです。

【ベルティエとジョミニ】
ベルティエは、ネイの幕僚であったジョミニを冷遇したようです。バウツェンの戦い(1813年)の後、ネイはジョミニの昇進を要求するのですが、ベルティエは逆に、「報告書の遅れ」を理由としてジョミニを逮捕しようとしました。結局、ジョミニはロシア軍に亡命します。マルボはジョミニがフランス軍の秘密文書を携行して敵軍に投じたと書いていますが、これは事実ではないようです。ジョミニはベルティエよりも長生きし、長大な回想録の中でベルティエを酷評しました。しかしながらジョミニの回想録には、自分の功績を誇張する傾向があるとされており、ネイの遺族も苦情を述べています。ジョミニが事実以上にベルティエを悪く書いたとしても、不思議ではありません。同時代の回想録は(ナポレオン本人によるものも含め)、生きた記録としても重要なのですが、個人的な偏見などの占める部分も大きく、利用に際しては細心の注意が必要になるでしょう。なお、ベルティエがジョミニを嫌うようになった原因としては、1805年にジョミニが、必要な手続きをとらずにいきなりナポレオンに面会しようとした一件がきっかけになったのではないかということが言われています。

【自殺か事故か】
ベルティエは1814年に皇帝のもとを去って、ブルボン家に忠誠を誓います。百日天下の際にはバンベルグの居城に篭っていましたが、窓からの転落死という形で生涯を閉じました。自殺だったとも事故だったとも言われて、結論は出ていません。他殺説もあるのですが、これの根拠は弱いようです。セントヘレナでのナポレオンは「ワーテルローでベルティエがいたら勝っていただろう」と述べています。ナポレオンは個人的にはベルティエを軽蔑していたという回想録の記事もあるのですが、大陸軍の参謀としてのベルティエの業績については、再評価する必要があるのではないかと思います。

ナポレオン元帥逸話集

1.ウーディノ
2.ダヴー
3.マッセナ
4.ミュラ
5.ベシエール
6.ランヌ
7.グーヴィオン-サン-シール
8.マルモン
9.スーシェ
10.ベルティエ
11.セリュリエ
12.オージュロー
13.ブリュヌ
14.ネイ

(各ページは随時更新します)

©Tachibana Yu (立花 悠)

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